磐田残照

磐田、野球、その後    中尾茂夫(2024.4.28)


今年の4月、「関東ミニ同窓会(院展鑑賞会&懇親会)」を“勝手にブログ”に掲載した旨のメールが井上さんよりありました。
“松本高明さん、すごいですね”といったメールのやり取りをしたうえで、松本さんの磐田時代の写真など若干の資料を送付しました。
後日、井上さんから「この資料を私ひとりで読み終えるのはもったい。ぜひ“勝手にブログ”に掲載させてもらえないか」という依頼がありました。 静大同期の皆さんに遠い磐田時代を想い起してもらうのもいいかなと思い、承知しました。
資料とは、2018年焼津市で開催された静大農学部野球部OB会の記念集「磐田残照」に寄せた私の『磐田のこと、野球のこと、磐田後の人生』です。【2024.4 中尾茂夫記】

磐田のこと

◆最初の印象とその後の印象

最初“ばんだ”と読んだ。いつ“いわた”と知ったか思い出せない。
入試で磐田の駅に降り立った。 およそ大学がある町には感じられなかった。 試験の下見で農学部の門をくぐった。 これまた、田舎者が描いていた大学の景色ではなかった。 試験は何となく手ごたえを感じ、運よく受かった。
1年生の夏休み、帰郷の折、何人かの高校同級生と集まった。 校舎のオンボロさを自嘲気味に喋った。今でも、その時の言を撤回したい思いがある。

農学部創立記念集「しじまの森」の中に、磐田市長の山内克己氏の記述がある。 小田実(作家、ベトナムに平和を!市民連合主宰)が紀行文に『今どき、こんな古い兵舎を利用しているのは珍しい。文部省は何を考えているのか』と記していることを紹介している。 山内市長は農学部長に校舎の新築を要望していたらしい。 第三者の方々も、農学部校舎の古さを気に留めてくれていたのである。
ただ、今となって、あの古さが懐かしい。 かの鶴田浩二は、歌「傷だらけの人生」で「古い奴ほど新しいものを欲しがるものでございます」と前語りを入れた。 が、人間、本当に古くなると、「古い奴ほど古いものを欲しがるものでございます」のように思う。
農学部創立25年記念集「しじまの森」を見ながら、来し方を振り返ると、磐田の最初の印象とその後の印象が全く異なることに改めて気づく。 この創立記念集、開くたびに良くできていると感心する。今更ながら、作成・編集に関わった方々に感謝である。

◆クラスメートに感謝

オンボロ校舎など、私の劣等感を払拭してくれたのは、クラスメートであり、後述の野球部であり、その他諸々の方々であった。
特に、同学年は、浜松の教養部時代から4年生時まで、まとまりが実によかった。 とくに、農学科は体育祭や文化祭での活躍が学部内で秀でていた。

当時の賞品は、すべて酒であった。1升びん入りの小賞から3升びん入りの大賞まであった。
4年生の時、1升びん12本が蓄積され生協の和室で大宴会を開いた。 20数人であったので、5合平均、呑兵衛は優に1升は飲んでいた。 宴は盛り上がり、農兵節、こちゃえ節 (替え歌)、寮歌などを高歌放吟した。 本記念集(静大農学部野球部同窓会開催記念集)で、浅田二郎君がその顔ぶれを紹介している。
ただ、すでに5名の者が鬼籍に入った。うち一人はF君(福田壌嗣さん)で、今年の1月に突然亡くなった。 長年付き合いの研究室仲間である。 本会の帰り道、級友と連れだって仏前で相偲びたいと思っている。 今後は、彼らの分まで長生きして、この世のその後を報告してやりたい。

◆卒業前、慌ただしく磐田を去る

昭和44年1月の終りか2月の初めであった。 研究室の仲間からスキーに誘われた。 卒業前で、九州に帰ったらスキーをすることはあるまいと思い、誘いに乗った。 初めてのスキーであった。
目的地は、長野県の八方尾根スキー場であった。 名古屋から中央線に乗り深夜列車で向かった。 朝方到着、早速、スキーを始めた。 いきなりリフトに乗り頂上に登った。 簡単に、滑り方を教えてもらった。 同行の仲間は経験者で、早く滑りたかったようで、私を見捨ててスイスイ滑り下っていった。
私は立っているのがやっとで、見よう見まねで何とか挑戦したがダメだった。 これではと思い、翌日は初心者スクールに入った。 数時間、基本を練習した。 午後から頂上に登って、滑り下りに挑戦した。 数秒と持たないでこけた。 斜滑降だけは何とかできたので、これを繰り返しながら下った。
最後は、自分に腹立ちスキーを担いで下りた。恥ずかしかった。 せっかく来たのにという思いと出来ない筈はないという野球根性で闇雲に挑戦した。 急斜面の滑り下りは、相当な緊張感(ストレス)であった。
後で聞いた話であるが、八方尾根は中級クラスのスキー場で、私のような初心者には無理なスキー場であった。

2日目の夜、急に腹が痛みだした。 トイレに行くと真っ黒い便がでた。 後で知ったが血便であった。 一晩中、傷みが止まらず、翌朝、近くの診療所の医師に診てもらった。 簡単な問診と検査で、取り敢えずの薬をくれた。 午前中、宿で皆の帰りを待った。
午後、磐田に向ったが、車中でも腹がぐずぐず痛み続けた。 途中の名古屋駅で、仲間が「名古屋きしめん」を美味しく食べているのが何とも恨めしかった。

磐田に帰って、すぐ磐田市民病院で診察を受けた。 精密検査をするので、明日もう一度来てくれと言われた。 痛み止めで腹の痛みは、徐々になくなった。
翌日、胃カメラ検査を受けた。 初めての検査で、その苦しさに七転八倒した。 医者から、重大なことなので君の家族に直接連絡をとりたいと告げられた。
当時、実家には電話がなかったので、実家と関係のある農業商店を教えた。 そこは地区内放送ができた。 突然「静岡から電話ですよ」と放送が流れたらしい。 胃潰瘍気味だが胃癌の疑いがあるので手術を勧めたいという内容だったらしい。
大分県庁に内定していたこともあり、手術するなら郷里でと決めた。研究室の岡本茂先生、湯田英二先生には、快く同意していただいた。
卒論はS君(坂口温さん)と共同でやっていた。 彼が発表まとめを全て受けてくれたため、無事卒業できた。 今なら、このような人情論は通じないだろう。 級友や球友にろくに挨拶もせず、慌ただしく磐田に別れを告げた。
湯田英二先生から、英文で「人間の力を見くびるな」という励ましの色紙をいただいた。 両先生とも今はない。 あれから、もう50年が過ぎた。


野球のこと

◆中2から野球部へ

中2の冬休みであった。 雪がちらつく中、近所の仲間と遊んでいた。 そこへ野球部の主将とエースが野球部の勧誘にきた。 2人で40~50分の道のりを歩いてきた。 その時、どんな返事をしたか覚えてない。 それから、本格的に野球をやるようになった。

当時、市内(中津市)には6つの中学校の野球部があった。 我が校は、あまり強い方ではなかった。 春休み、近くの中学に練習試合に出かけた。 自転車で小一時間かかった。 私には初めての対外試合だった。 3塁を守った。3度打球がきた。捕球はできたが、3度とも1塁へ暴投だった。
最初、あがってしまったのが尾を引き、金縛り状態になった。 監督は、烈火の如くの表情だった。 試合が終わってからが大変だった。 試合終了後、母校に帰って猛練習が始まった。 ノックの嵐で、泣きながら打球を追った。 なぜか、とめどなく涙が流れた。
それから30年後くらいだった。 実家の秋祭りに帰っていたら、当時の監督が偶然立ち寄ってきた。 彼もこの時のことをよく覚えており、昔話に花が咲い た。 この監督は、好意で監督をひき受けていた一般人であった。

ただ、このような猛練習のかいあって、中学最後の中津市の大会で優勝し、県大会に出場した。 1回戦で県南の強豪校を破り、2回戦で優勝校と対戦し日没敗戦となった。 時間も遅いということもあって、ご褒美で別府2泊目を過ごした。 夜、自由行動の時間があり、市川雷蔵の映画「大菩薩峠」を観た。 内容は忘れたが、気味の悪い映画だった ことを覚えている。

高校でも野球を続けた。普通校で親は大反対だった。 内緒で入部したが、程なくばれた。そのうち親も諦めた。 3年の夏の大会終了まで続けた。
中間・期末の試験前と年末年始、お盆以外は、土・日も休みなしであった。 強豪校でなかったのに、やたら練習日が多かった。 部長・監督は野球未経験の教諭だった。 日々の練習は、市内に住む先輩連中が毎日来てしごいた。 しごくのが趣味のように思えたこともあった。
後年、思ったことであるが、彼らは何の報酬もなしに来てくれていた。 当時、有り難さを感じることは全くなかったが、先輩なればこそであった。

科学的、論理的な練習でなかったため、なかなか力が付かなかった。 それでも3年になると、ある程度の力が付き、県北大会で優勝したり、県選手権大会で準決勝まで進んだ。
最後の夏の県予選では、戦前予想でダークホースに挙げられた。 3回戦まで勝ち進んだが、最後、県代表校に敗れた。 この年は、中九州大会(当時は、大分・熊本の各県代表2校、計4校で甲子園出場を競った)で大分商業が優勝し甲子園出場を果たした。 この大分商業には、春の県選手権大会で勝利していたため大いに満足だった。

◆大学でも野球

取り敢えず、寮生活を始めていた。 大学生活の様子が早く判るだろうと思ったからである。
4月の終り頃だったと記憶している。 野球部主将の露無慎二さん(農学科、昭43卒、のち静大教授、静大副学長)が勧誘に来られた。 その時、すでに空手部に入部していたのでお断りした。 空手部入部は、学内で活気のある存在だったことや寮に主将Kさんがいたことがその動機であった。 Kさんは古武士の風貌を漂わせ、カッコ良かった。
露無さんの勧誘は熱心で、2度、3度と部屋に来られた。 4度目くらいの時、少し心が揺れた。 空手部主将Kさんの了解が得られれば転部してもいい、と言ったような記憶がある。
露無さんの熱心さに負けて野球部に転部した。 思いもよらず、大学でも野球 をするようになった。

当時、大学野球というと、何とか六大学野球をイメージしたが、そのような雰囲気では全くなかった。 しかし、高校時代の練習の窮屈感はもう味わいたくないという気持ちもあって、逆に楽しくやれそうな気がした。

一番の思い出は、私が主将をしていた3年生時の東海大会(東海地区国立大学大会)出場である。 初めての草薙球場であった。沢村栄治の伝説球場であることは、以前から少し知っていた。
相手は、名古屋工業大学であった。 後で聞いたことであるが、愛知六大学2部リーグの優勝校ということであった。

試合は、さい先よく先取点をとり、追加点も重ね優位に試合を進めていた。 ただ、エースの佐藤紘光さんの調子が思わしくなく、徐々に苦戦気味になった。 平素の佐藤さんは、ゆったりしたフォームで、左腕から繰り出す伸びのあるストレートが持ち味で、コントロールも安定していた。 今でいうと、中日ドラゴンズの岩瀬仁紀に似ていた。 東海大会出場も佐藤さんの投手力があってこそであった。

佐藤さんの調子が、回を追うごとに悪くなった。 センターの小林さん、セカンドの和田さんを繰りだし、何とか局面打開をはかろうと焦った。 私のあまりの焦りに、応援に来ていた先輩の金田雄二さん(農芸化学科、昭43卒)に、ベンチから「中尾、落ち着け」と怒鳴られた。
後で思ったことであるが、試合前の練習時から佐藤さんの体が何となく重そうだなと感じていた。 当日は、練習時から蒸し暑く、体力消耗が激しかった。 磐田を早朝出発で睡眠不足もあったと思われた。 調子が上がるまで、最初は、スローの入りを進言できれば良かった。私自身が、最初から意気込み過ぎていた。

試合は、シーソーゲームになり、最後、土砂降り雨で試合続行不能になった。両チームの主将が呼ばれた。 大会日程で再試合は出来ないということだった。 事務局はこのようなケースを想定してなかった。
私は、全員ジャンケン勝負を主張した。 相手は1対1でやろうと主張した。 チームに帰って相談するというと、相手は、俺は全権委任されてきている。 男らしく、ここで決めてくれという態度だった。これにかっときて、1対1の挑発ジャン ケンに乗って負けてしまった。
遠くで、眺めていたナインには何が起こったか判らない 状態だった。 皆んなに、事の顛末をうまく説明できなかった。 普通なら勝てる相手だったが、私の冷静さの欠如、駆け引きのひ弱さで、敢えなく敗退してしまった。 皆んなに申し訳なく何とも後味の悪い結末だった。

この大会には、いろいろな伏線があり、部員には嫌な思いを沢山させた。 5月の全日本大学野球選手権大会への学内予選で静大静岡に大敗したのも私の責任で、これを挽回しようと無茶な練習を強いた。 ある日曜の練習日、皆んなの大幅遅刻が頭にきて、ノックの雨を降らせた。 浅田二郎君が「こんなノック、意味があるんか」と涙ながらに迫ってきた。 私は、「つ べこべ言わず、取りにいけ!」と怒鳴った。今ならパワハラそのもので、未だに後悔の念を消せない。
あれやこれやありながら、東海大会の学内予選で静大静岡に快勝し、後日の工学部にも大勝した。 後の祝勝会で、浅田君が手を握って喜んでくれた。 救われた気持ちで、本当にうれしかった。


磐田後の人生

昭和44年3月、郷里に帰って胃の手術をした。 卒業式には出席できなかった。
3月の終り、大分県庁から赴任通知がきた。 入院していると告げると、赴任予定先の所属長と部下の方が病院に飛んできた。 温かいご配慮をいただき、1か月遅れの赴任を容認してもらった。
以降、県の農業試験場の果樹関係の研究・指導業務に30年、農業改良普及業務に5年勤め、平成16年に退職した。 この間の業績は、ある程度自慢できるのもあれば、恥ずかしながらのものも多い。
退職後は、ナシ産地とブドウ産地の技術顧問として8年間勤務した。 勤務というより、産地の生産現場で大いに学ばせてもらった。

県退職翌年、脳梗塞で倒れてしまった。 それまでの健康管理の不備が露呈した。 倒れる前の1年数か月、大分大学教育学部の非常勤講師で技術課程の学生に農業技術を教えた。
現在、ボランティア的にブドウ、ナシ産地の技術指導を行っている(2024年現在継続中)。 体力は年々低下を感じるが、果樹感覚は年々の蓄積があり衰えはあまり感じない。 果樹技術は、根づくり、樹づくり、葉づくり、実づくりが基本項で、常なる観察、熟考、実践、反省(検証)の繰り返しである。 終りはない。

この先、どのくらいの人生ありやと思うが、磐田の青春を想い起しながら悔いなく全うしたい。


補足(同期生の皆さんへ)

駄文、ご笑覧いただきありがとうございました。 55年前、磐田の青春の一端を想い起していただけたら幸いです。
時々、静大農学部野球部OB会を開催し旧交を温めていますが、この駄文を野球部OB会記念集に寄稿してから、すでに6年が経ちました。
この時、あと10年は元気で居たいと思っていましたが、だいぶ厳しくなっています。 昨年(2023年)8月、農学部同窓会に便乗して野球部OB会を開催しました。この機を利用して、学生時にお世話になった三ケ日のミカン農家を訪ねました。
55年前の突然の帰省の時、浜松駅からお別れの電話をして以来、音信がほとんど絶えていました。4年ほど前、ご高齢の奥様から是非会いたいとの連絡をいただき、55年ぶりの再会を果しました。ご主人はすでに他界されていました。
「中尾さんのあの時の電話が忘れられない」というお言葉に、“生きてる”を実感する思いでした。
昨年、静大野球部から2人目のプロ野球選手が誕生しました。佐藤啓介選手(地域創造学環、愛知県出身)が広島カープから育成ドラフト2位で指名されました。国立大の現役選手としては、全ドラフトで佐藤選手1人でした。
静大のプロ1号は2019年の奥山皓太選手(阪神タイガース)でしたが、残念ながら1昨年退団しました。 55年ほど前の静大野球部を思うと隔世の感です。
我々の時代は静大静岡(教育・文理)、静大農学部(磐田)、静大工学部(浜松)の3つの野球部でした。当時、静岡県内には、大学の硬式野球部は4つしかありませんでした。今、オール静大となり、これまで全日本大学野球選手権大会に3度出場しています。
この大会への国立大の出場は、公立の普通科高校が甲子園に出るのと同じくらいの難関です。今、静大野球部は全国国立大の強豪校(名門校)になっています。国立大ゆえの厳しい環境で、後輩の皆さんは大変よくやっています。立派の一言です。OBの端くれとして嬉しい限りです。 詳細はぜひ(こちら)をご覧下さい。

静大農学部同期生の皆さん、どうかお元気で。 磐田で会いましょう。