学生の頃、年末から春の約3カ月間は、毎日、茶と椿の交配に明け暮れた。
静岡県は茶の産地だということもあって、卒業論文のテーマは熱帯~亜熱帯由来の茶に、耐寒性の強いヤブツバキの遺伝子を導入するというもので、将来、寒さに強い茶の育成が求められた時の原種育成を目指すものだった。
交配は、蕾の先端を切除して中の花粉管(葯)を除き、茶の花粉を受粉してから、昆虫が潜り込まないように袋掛けするという大変面倒な作業だった。
“数撃ちゃ当たる"方式ではないが、故郷伊豆半島の先端にあった椿園にまで足を運んで、数千個の蕾の先を刻んでは交配を続けた。
千利休やその弟子の時代には、茶と椿が近縁であることを知る由もなかっただろうが、偶然にも椿の花は茶花として使われていた。
「有楽」という名の品種がある。利休の高弟“織田有楽斎”愛培の椿として知られているが、これに近い系統の品種群を「侘助」と称して、茶花に重用されていた。
交配に勤しんでいる最中、侘助は“ヤブツバキと茶の雑種”であるという新説を聞いて大変驚いた。当然のことだが、私の関心は茶の品種改良よりも侘助の雑種説に傾き始めた。
それ以来、卒論の交配目標を二つに改めた。 (2000.1)
鑑賞用に栽培されるイネ科植物は少なくてさびしいが、世界の文明を支えてきた、イネ科の代表選手“米”と“麦”の功績に感謝しなくてはいけない。
「会津磐梯山は宝の山よ。笹にエー黄金が成り下がる・・・」という会津の民謡がある。ササは60年に一度花が咲き実を結び、凶作に苦しむ農民の飢えを救ったという伝説を歌ったものだという。
“育種学”を志す学生を前に恩師は語った。『ササと小麦は同じイネ科だ。交配して多年性の麦ができれば、種まきも、麦踏みも不要になるので、楽になって農民は助かるだろう。』
先生の研究テーマは、小麦とライ麦の雑種育成に係わるものだった。麦の季節は助手も研究室の学生たちも一日中交配に追われた。三時には、先生を囲んで講話を聞きながらお茶をいただくのが恒例になっていたが、“麦とササ”の話はこの時聞いた一説だった。
先生が席を外した後は、いつも好き勝手な話に興じたが、この日ばかりは、“麦とササ”について面白おかしく論じ合った。麦とササの雑種ができるなんて信ずる学生はいなかったが、「60年に一度咲く麦ができたらどうするんだろう?」と笑いながら言う先輩の言葉に、私たちは爆笑した。 (2015.4 回想)
ウェザーニュースで、季節を先取りする草花を紹介する機会が多くなった。西洋タンポポは、札幌農学校のアメリカ教師により、野菜として持ち込まれたものが帰化したものらしい。正常な花粉ができないはずの3倍体に、花粉が生じて、在来種との雑種が生まれ問題になった。日本種は里山に、西洋種は都市部の公園等の周辺に棲み分けられるようになってからは、この話題はなくなったが、西洋種は道路の隙間にも侵入してきた。これらは、周年開花性の性質があって、年末になると咲き始めるので時々ニュースに取り上げられる。迷惑千万だ。
タンポポにまつわる“苦い思い出”がある。乾燥した根が、コーヒーの代用になることを知ったのは、貧乏学生の時だった。バイトの僅かな給金や、仕送りが底をつくと、飲むものに事欠いて根を掘り天日に干した。皆が揃った夜、先輩の部屋に集合してコーヒーブレークとなった。煎じ薬ののような味だったが、砂糖とクリープを入れると、ほろ苦さもあって結構いける。調子よく2~3杯飲みほして、20分も経っただろうか、用を足しにひとり二人と席を立つ。止せば良いのに戻るとまた1杯と飲み直す。それからが大変で、15~20分おきだ。明け方まで続き、寝る暇がなかった。読み直した本の、薬効の筆頭に“利尿剤”と記されていた。
70歳を越えた今、幸いあの時のような回数もなく、夜中もほど々に眠れている。 (2017.10 回想)