50年前の磐田マップ


小木曽昇 遷蕎寮 生協 図書館 加藤・井上 餃子店 白水都子 中根屋 浅見潔 鮫島屋 長崎チャンポン 惣田・中辻 尾石邦也 中村重蔵 吉田和矩 栗田一夫 梅田平 バー 松本高明 遠藤猛 内田建和 かにや 藤垣順三 大樟
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磐田下宿の思い出話 (学籍番号順)

尾石邦也

折井商店2F下宿 磐田市見付1246-1



中村重蔵

磐田の下宿先『松風屋』のこと。
四年生のころ、下宿していた前島さん宅・見付東坂の「松風屋」は、酒屋でした。
さらに昔、明治時代は菓子屋で、 「裸祭に遠州煙草 菓子の松風粟の餅 さてもきれいな女中たち 一寸転ばぬ達磨足袋(日露戦争当時の唄)」と唄われていました。
『南瓜: 見付三本松に、前島伝之助氏(現町長の四代前)菓子商で健脚、日々三十里を歩行したと言ふが、折々名古屋へ松風菓子の原料を仕入れに行った(前島氏、今は酒屋であるが、松風屋を屋号としている)。 或日、帰途、其地で品質優秀な南瓜の種を発見し、之を持ち帰って自宅の畑に栽培したのが、名産南瓜の起源である(当時の畑は、今の北野の報徳社裏である)。爾来明治三十年代、北井上平田弥會吉氏等、普及に努めたものである。』 〔※遠州地方の民俗学研究雑誌「土のいろ」昭和6年第八巻第二号より〕

これは、三河・遠州地方の方言、ウタリ【水はけの悪い低地、Δ足神社〔ウタリジンジャ:私が総代をしていた神社〕】の語源を調べていたところ、記事を偶然見つけたものです。

ちなみに「松風屋」のお嬢さんは、一年先輩の農業経済研究室の西頭徳三さん(元常葉大学学長)の奥様にあたります。
学生時代、品のある綺麗な方で気さくなところもあり、ある種の淡いあこがれをいだいておりました。
半世紀も昔の事です。



内田建和

下宿先の部屋は、ご夫婦の老後用にと建てられたみたいな離れに居ました。
家族同様に、朝夕2食と洗濯もして頂き、今となっては本当に感謝です。
同級生が泊まった時など、同じように朝食を出してもくれました。
息子さんたちからは「お兄さん」と呼ばれていましたね!
今でも年賀状を交換していますが、お二人ともお元気で(93歳、89歳)頑張っています。



栗田一夫

大家さんは80歳代と思しき気品のある老婆で、和裁を教えるのと下宿で生計を立てるといった、平屋のこじんまりした下宿でした。
二年先輩の安田さんの紹介で、先輩と入れ替わりに農学部の寮から移りました。
小生の他に女子高の先生が下宿しており、一番の悩みは、お風呂が一番最後だったので湯垢が一面に浮いた風呂桶に入るときでした。
逆に楽しみは、和裁を習いに来る若い女性と、たまに廊下で顔を合わせる時でした。
いずれにせよ、四畳半のこじんまりした部屋ながら、静かな環境下、当時は大満足でした。



吉田和矩

周辺はタバコ畑でした。夜陰に葉っぱを何枚かちぎって、乾燥させロールにして吸ってみたら、喉と口への強烈な刺激!未だ忘れられません。
徹夜で遊び論争して明け方になり、腹が減って野菜炒めを作るため、近くの畑で何時ものようにネギや白菜を採取していたら、隣に人影が.....。
ギョッとしていたら「農大の学生さん?」は、はい「苦学してるんだね。いつでも自由に採っていいよ。」
夏には石鹸を持って、磐田中のプールにドボン。シャワーで体を洗ってごめなさい。



浅見潔

採光が乏しく、梅雨時、やや異臭があるのは欠点でしたが、夏は涼しく、冬はほんのりと暖かい蔵の宿。
坂道を登ればすぐ学校、帰ってもカビの研究ができ(応用微生物講座)勉学に勤しむのに最適な下宿でした。
また、目の前は酒屋(中根屋)。さらに、夜、姫街道を渡れば、赤提灯の輝く見付の宿街。
おまけに下宿代が安い!
その結果、四年生すぐの春先に、早い段階で就職が決まり、優秀な成績で卒業したことは周知の通りです。

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天埜博之


50年前の磐田下宿先は、3年間(1年生、3,4年生)遷喬寮で過ごしました。
入学時には多くの同級生が入寮したと思います。1室3人の定員でしたが満室だったと思います。
私の同室者は2人の4年生で、すごく年上に見え何を話したらいいのか分からず小さくなってました。
暫くすると高校の1年先輩がいることが分かり、いろいろな情報をもらい心強くなりました。
少し寮生活に慣れてきたころに、夜中にたたき起こされ修養室で正座をさせられ説教をされました。ストームです。
このとき修養室の上座に座布団を何枚か積み重ねた上に竹刀を持って座っていたのが、同室の先輩でした。
この後多くの同級生と先輩が順次退寮し、私は後期試験の直前まで1人で過ごしました。
1年生の出来事です。
当時の写真もどこかにあるはずと探しましたが、探しきれませんでした。発見できれば送りたいと思います。



井上建雄

教養部時代が終わり、中村重蔵くんの弟の運転で、浜松から磐田・西新町の下宿に引っ越しました。それから約半年後、下宿先の都合(娘さん婚約)で、河原町の玉木さんちへ下宿替えをしました。
専売公社のたばこ工場がすぐ目の前で、雨の日などは、ピー缶を開けた時のような甘酸っぱい香りがよく漂ってきました。
下宿先に、と言うより下宿部屋の真下に、高校生の娘さんの部屋があって、夜遅く、障子戸で仕切っただけの娘さんの部屋の前を静かに通り抜けて、2階の下宿部屋にたどり着くことが度々でした。
朗らかでよく笑い、かわいい娘さんでした。時折、下宿のおばさんが大学の行事を聞きつけて、浜松市民会館での軽音楽部やSSHあるいはギターアンサンブルのコンサート、大学祭などに「娘(ミヨちゃん)を連れてって」と頼まれました。 で、中村重蔵くんに付き合ってもらい、ミヨちゃんの同級生と四名で出掛けました。
下宿部屋で、よく酒やウィスキーを飲みましたが、夜、下の部屋にむかって「ミヨちゃ~ん」と大声を出す学友がおり、こっちが赤面したものです。そんなある時、Oくんが畳を剥がし、床板一枚の上から、「ミヨちゃ~ん!」と叫ぶ始末です。
4年生になってから、隣の小部屋に加藤清六くんが入居して来、囲碁を教えてもらったりしながら無事卒業をむかえました。そのころ、ミヨちゃんも資生堂のマネキンさんとして通勤を始めたところでした。



小木曽昇

原嶋栄一くんが隣の部屋にいました。
大家の皆さんに良くしてもらいました。洗濯物を出すのが遅れると催促され、怒られることもあったりで、いい思い出ばかりの下宿でした。



惣田昱夫

卒業の3か月前まで、中辻さんとふたりで住んでいました。
家主さんにやさしくしていただきました。(家賃無料)
卒業間際の3カ月は地図表示欄外左(西側)に住みました。

中辻博尊

結構大きな古民家を、惣田さんとふたりで借りていました。
古い家で、便所の床(後ろ側だけ)が落ちて、傾いた状態でトイレを使用していました。
何人か、訪ねて来てくれた人がいましたが、皆さん、トイレには苦労していました。(ヒトごと?)
前の家の可愛い子、多分小学校の4~5年生でしょうか、時々「勉強教えて」と来ました。それが結構楽しみでしたね。



白水都子・中沢悦子

下宿先住所:磐田市見付4029-2

参考:メニュー“イベント”「かんざくら」後半の1968年農芸化学科10大ハプニング12月、1月をご覧のほど。





磐田思い出処

生協

まず、生協と言えば小林くん、小林くんと言えば生協が思い出される。
学生食堂、書籍・参考書、文房具、タバコ、理髪、‥‥。普段の生活に必要なものがたいてい揃い、情報交換や憩いの場でもあった生協。
帰郷シーズンになると、地元遠州の特産品が並んだりした。また、初冬、農場で採れたミカンを農産製造学の実習で加工し、即売した缶詰もずいぶん売れ行きが良かった。
応用微生物教室で、毎年秋、山梨から“研究用”として取り寄せるワインは、すこぶる廉価で、即完売。なにしろ、ワインと言えば赤玉ポートワインぐらいしか口にしたことがない時代。
「ほど良い酸味・タンニックな味わいに加え、マイルドな酸化(樽呼吸)による芳醇な香りがワインの本来の姿」(以上、近藤先生・発酵醸造学講義)を実際に知る機会とばかり、赤白何種類かの一升瓶を購入。
坂部くん、杉浦くんとこれは旨いとか何とか言って、ろれつが回らなくなるまで、一晩で飲んでしまった。
で、深夜の帰り道、大学構内までよろよろたどり着いたものの、生協近くのグランドで腰くだけになって歩けなくなってしまった。
なんとか這って茂みのなかに入り込み、南の空に映えるオリオン星座を眺めながら朝まで時を過ごせざるをえなかった。
やがて朝になり、生協への一番乗りは学食の調理を賄うおばさんであることを理解しつつ、ようやく下宿へ朝帰りした次第。
〔井上建雄〕



図書館

大学の図書館と言えば、アカデミックな感じがするが、教養部時代はともかく、3、4年生になると多少すれて、図書館の利用の仕方も変る。
当時、書き物を写すと言えば、筆写するのが普通だったが、唯一図書館に「青焼き機(ジアゾ式複写機)」があった。アンモニア蒸気で現像するやつである。
学部生になるといろいろな事情(?)で、講義を受けそこなうことがある。
そんな時、几帳面で、仏さまのように優しいSくんやHくんがおおいに頼りだ。
試験が近づくとSくんたちのノートを借りて筆写する。ちなみにOくんからもノートを借りるのだが、化学記号の部分はともかく、文字はミミズかナメクジの這った跡のようでまったく解読できない。
ともかく、筆写が済むと感光紙をたくさん買い込み、筆写した原稿と図書館に持ち込み、青焼き複写に励む。たぶん1教科あたり10部ほど焼いたと思う。
余分に焼いた分は、たしか20~30円で頒布したような気がする。ほぼ実費であるが、それで自分の分はタダになるか多少の駄賃になったはずだ。
自分以外に青焼きコピーの必要なヒトが居たことは間違いないが、どなたに購入してもらったか、いまだに誰ひとりとして思い浮かばない。
〔井上建雄〕



餃子の店

餃子一人前とビール一本の夕食が楽しみでした。
〔中辻博尊〕



中根屋

発酵を学ぶ学生の集う講座では、暑い日には、よくアミダくじを引いては、敗者(最大出資者)が坂を駆け下り「中根屋」でジャイアントビールを買い、また坂を駆け上がってきたものでした。
アミダで大負けした時は、ちょっとがっくりですが、坂道を上下して汗をかいた分だけビールが美味しく飲めるのです。(いつも勝ってるヒトは知らんでしょ?)
アミダとは別に、講座内で就職内定者が出ると内定者当人のおごりで、ビールで乾杯です。ふたりの女性(エッちゃん、ノザキさん)もよく飲んでたように記憶してます。
そうした時の近藤先生、飴山先生のお話は、授業での話とはまったく違い、とても楽しいものでした。
因みに、さらに前の話、大先輩の伊奈和夫先生(農産製造学)は、学生時代「中根屋」二階に下宿をしていたとか。
なにかと武勇伝の残る伊奈先生のこと、下宿代より飲み代の方が多かったのでは・・・
〔井上建雄〕

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長崎チャンポンの店

長崎チャンポンの店 時々食べに行きました。
〔中辻博尊〕



鮫島屋

教養部時代、浜松から磐田へ出掛けてくることはとても楽しみなことでした。 とりわけ軟庭部の片岡千賀之、小川勝利、増沢武弘の三先輩は、大学の正門から南西方向の小高い開けた地にある、荘厳な洋館に下宿しており、テニスの練習後、よく、そこでビールを振る舞ってくれました。 そのうれしさ、楽しい会話や感謝の気持ちは、忘れることができません。
天井の高いその洋館は医院だったらしく、中央の広間を囲む各部屋に居住する3名の先輩がひどく勉学に秀でる偉い人たちに見えたものです。そしてある時、その先輩たちが連れてってくれたのが「鮫島屋」でした。
その後、部の納会、送別会で、そして磐田の学部時代(3、4年次)のコンパなどで、「鮫島屋」の二階で、よく食べ、よく飲みました。 しかしながら「鮫島屋=うなぎ屋」のはずなのに、記憶違いかもしれませんが、鰻を食べた覚えは一度もなく、いつも「すき焼き」だったような気がします。
後年、家内と北海道から鰻を食べにやって来て「鮫島屋」のうな重をとても美味しく頂きました。
さらに20年のちに訪れたら、川べりにあったはずの店はすっかり無くなっていました。
〔井上建雄〕



小さなバー

梅田くんと下宿近くのカウンタバーに行きました。
とにかく金が無いので、ツマミは頼まない。
「一番濃い酒がほしい」と云うと、ドライジンのストレートが出されました。
そして「あんたら本当に大丈夫?!」と言われたのですが、二人は本当に酒に強かったのです。
〔中辻博尊〕



かにや

当時、磐田と言えば「かにや」。
磐田駅のホームに降り立つと「かにや」と書いたプレート状の看板が目に入り、駅前通りの電柱にも、ずっと「かにや、かにや、・・・」と並んでいました。
名前を覚えただけで、しばらく経ってから、下宿のおばさんか誰かに「まだ食べてないの?」と云われ、食べに行きました。
スープが絶品。旨かった!
教養部時代、広沢小学校グランド裏の下宿で毎晩、夜食で摂っていた「マルちゃんラーメン(丼に入れた麺に熱湯を注ぎ蓋をして3分)」とは大違い(当たり前)。
先年、ついに閉店したとか。残念。
〔井上建雄〕



大樟

大楠 磐田駅前の往来の人々が少なくなり、善導寺「大樟」近くの空き地が薄暗くなるころ、よく赤い提灯をぶら下げたリヤカーが現れた。
ある日のこと、坂部くんと一緒に、屋台のノレンをくぐった。
安価で手っ取り早く酔えるよう、焼酎を一杯ずつ飲む。会話に弾みがつき、お代わりをしようと思った。
空腹に気づき、目の前で焼いているヤキトリを、と思ったが、ヤキトリと焼酎を天秤にかけ即座に「焼酎もう一杯!」
屋台のオジサン、眼線に気づき気遣ってくれたのか、キャベツの葉1枚を焼き塩をかけて、ツマミ代わりにと出してくれた。
裕福なふりもせず、つき合いのよい坂部くん、「ボクももう一杯!」。
しょっちゅう金欠病でしたが、楽しい時代でした。
〔井上建雄〕










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